奥沢に生まれ、奥沢に育って
 奥沢1丁目 大道 和男(聞書き 鈴木仁)

第68号 2017.8.3

 昭和の初めに奥沢1丁目に生まれ、奥沢小学校の時に学童の強制集団疎開を経験し、混乱期に中学校を都心に学び、家族助け合って事業を行いながら、地域貢献をされてきた、昭和8年生まれの御年84才ですが、お若くどう見ても70初めに見える元気な方です。

 小学校6年生の時に奥沢小学校の3年生から6年生の生徒たち250人が、長野県松本市に3か所に別れ疎開したそうです。親から引き離され、お寺の本堂で畳一畳で寝起きする、今ではとても考えられない生活を余儀なくされました。冬の寒さは厳しく、又食べものも乏しく、ひもじい思いをした。その上当時のトイレは外にあり、お寺の障子に映る影は恐ろしく、寂しい毎日だったようです。

 昭和19年に卒業となって帰京し、都立京橋商業学校に通うことになりました。空襲もある中、有楽町駅で下車し、勝鬨橋を渡り月島へ通ったそうです。終戦後学校は進駐軍に占領されたため、今の銀座数寄屋橋近くの泰明小学校を借り、運動場は日比谷公園と言う、2年間でした。

 卒業後は親の経営する自転車の販売を手伝いました。経済の成長に伴い、原付自転車、更にはオートバイ、やがて自動車の販売を家族で進めました。

 氏は長男で、妹さんと3人の弟さんがおられます。長男の立場が重かった当時、夫々に合った仕事に就ける面倒見て来られたそうです。兄弟全員健在で、大半が奥沢に住んでおられます。

 民生員を務めた父上の影響で、地域への奉仕にも、取り組れました。その一つは消防団の仕事を33年間続けました。特に大晦日でも紅白歌合戦を聴いたり見たりはできなかったお仕事だったそうです。

 地域の伝統を継承し、お店の所属する奥沢東通り商交会の発展に尽くし、特に奥沢交和会の活動に、東通り商交会への参加を積極的に進め、18年間副会長を務められました。現在でも奥沢交和会活動に積極的に参加する方が1丁目には多いように思います。

  昭和の時代を生き抜いてきた親分肌の優しい方と言う印象を受けました。