第6号 2001.11.7 太平洋戦争末期、米軍では委細調査の上で奥沢周辺に日本の海軍将校たちの自宅が在ることを知っていたようです。東京地区空襲の最後となった昭和20年5月23日と25日には、奥沢駅の南と北のそれぞれ海軍村に焼夷弾が投下され、しかも可成り適確に将校宅が全焼に至りました。戦局が日本側に悪化して本土も襲撃されることになり、昭和19年12月頃から東京に小規模な空襲があり、20年3月10日には歴史にも残る本所、深川への大空襲、その夜私は二階へ行く階段の東の小窓から、遥か向うの地域が広大な範囲にわたって真っ赤に燃え、火の粉が舞い上がり、時に燃える火の玉が多分一キロもの距離を飛び火してゆくのを見ました。 4月には小石川・銀座など、また蒲田・大森方面への空襲で多くの工場、学校等も焼失しました。東京を焦土化するにはどの地域に焼夷弾・爆弾を何個投下すればよいのかという計算も米軍側では完了…