おくさわ今と昔『昔』

奥沢の空襲(その1)
 奥沢2丁目 黒井 眞器(旧姓 中島)

第6号 2001.11.7  太平洋戦争末期、米軍では委細調査の上で奥沢周辺に日本の海軍将校たちの自宅が在ることを知っていたようです。東京地区空襲の最後となった昭和20年5月23日と25日には、奥沢駅の南と北のそれぞれ海軍村に焼夷弾が投下され、しかも可成り適確に将校宅が全焼に至りました。戦局が日本側に悪化して本土も襲撃されることになり、昭和19年12月頃から東京に小規模な空襲があり、20年3月10日には歴史にも残る本所、深川への大空襲、その夜私は二階へ行く階段の東の小窓から、遥か向うの地域が広大な範囲にわたって真っ赤に燃え、火の粉が舞い上がり、時に燃える火の玉が多分一キロもの距離を飛び火してゆくのを見ました。  4月には小石川・銀座など、また蒲田・大森方面への空襲で多くの工場、学校等も焼失しました。東京を焦土化するにはどの地域に焼夷弾・爆弾を何個投下すればよいのかという計算も米軍側では完了…

奥沢の空襲(その2)
 奥沢2丁目 黒井 眞器(旧姓 中島)

第7号 2002.2.15  二階へ行く階段の床に焼夷弾が突き刺さって高い天井へ向けて火を吹いているので、階下からバケツで水を運んでぶつけてみても、火は上へ上へと燃え拡がってゆきます。それでも必死で母と交替しながらバケツの水をぶつけました。もう駄目と思った時、ふっと急に火勢が衰えてどうやら消し止めることに成功、父が屋根へ昇って上から火叩きで炎を叩いたのが効果があったのでした。終わってみると私の防空頭巾も防空服も沢山の焦げ跡があって、よく火だるまにされずに済んだあとで怖くなりました。次の日防護団の方達が来られて調査すると、家の東側庭、建物から2メートル位の所に八発の不発焼夷弾が並んで埋まっていました。畑にしていて土が柔らかいので発火しなかったのでした。これ等の弾が家に当たっていたら到底防ぎ得ず、わが家もその夜焼け落ちたでしょう。初めての消火作業で夢中でしたが、その次に又同じようなことがあった…

少年時代の思い出
 吉田 昌弘

第8号 2002.5.29  私は奥沢で生まれて、早や60年の歳月が経ちました。私が少年の頃、奥沢の町は静かで実にのんびりとした雰囲気の町でした。現在のバス通りも、バスが通る以前は牛や馬が荷車を引いてのんびりと闊歩していました。近所のお婆さんから聞いた話ですが、昭和10年頃には森田屋酒店(奥沢2丁目)の近くに銭湯(おふろ屋さん)が一軒あったそうです。そのお婆さんは若い頃、暗い夜道を提燈を下げて銭湯に通ったそうです。今では想像もできません。  私が小学生の頃、サーカスがやって来て、弁天通り(現在の奥沢銀座通り)にサーカス小屋のテントを立てて興行をしたことがありました。私も数人の友だちと観に行ったのですが、空中ブランコなどハラハラする曲芸があったのを今でも鮮明に覚えています。夏には我が家の庭にもトンボが沢山飛んで来て、初秋の麦畑には(当時は麦畑がたくさんありました)赤トンボが群れをなして飛んで…

鎮魂
 奥沢2丁目 工藤 靖子

第9号 2002.9.4  私はドイツ村(現奥沢2-45あたり)に生まれ、育った。昭和初期に拓けたドイツ村、海軍村の存在を識っている方も数少なくなってしまった。今は家の形もすっかり変わり、昔日の面影はない。  ドイツ村を識らない方も、第二次世界大戦中、神宮球場で行われた、学徒動員の雨中の大行進のテレビ画像は何度か眼にされているのではないだろうか。  当時、テレビもビディオもない時代、ニュース映画にドイツ村の”アッちゃん”が映っているということは、たちまち近所の評判になった。帝大(現東大)の学生であった”アッちゃん”。私は”アッちゃん”の顔をはっきりとは憶えていない。しかし最近でも時期になるとくり返し放映されるテレビ画面の中央に大写しされている青年こそ、”アッちゃん”ではないだろうか。お母様そっく…