「大ケヤキのある散歩道」の戦争と平和
 奥沢2丁目 宗 昭行

第17号 2004.10.11

  この散歩道に面した現在の地に住むようになったのは昭和15年。間口3メートル足らずのうなぎの寝床の敷地にわが幼少の思い出の家があった。

  昭和19年4月八幡小学校に入学、入学式の写真を見ると男児生徒ばかり70人が写っている。ほぼ全員がいが栗坊主頭という戦時色濃厚なもの。

  この頃の思い出で強烈なのは米軍のB29爆撃機による空襲である。「敵機 来襲」を告げる空襲警報とともにあわてて隣家の防空壕に逃げ込む。近くのお宅に焼夷弾が何発か落とされ、玄関扉に大きな穴があいたりした。自由が丘あたりも空襲の被害に遭い、我が家の二階から見た西の空が真っ赤に燃えていた光景は成人してからも時々夢に現れた。この頃だろうか、普段は見掛けない大勢の人が我が家の前の道を緑が丘駅方向に歩いていたのを思い出す。空襲で家を失った人々が東工大に向かって、避難していったのでは、と今になって想像する。

  結婚して家を出て、再び想い出の地に戻ったのが昭和61年。この時期頃から、100 ~ 150 坪もあった大邸宅が代替わりなどのため、三分割・四分割され宅地が細分化されて住環境が大きく変化していった。

  しかし、時代の流れだから仕方がないと諦めるのは早い。この道の左右を見ながら歩くと、新しく住人になられた方々が樹木を植え、道端に鉢植え等を置いて周辺の環境保持に努めておられる様子がうかがえ、大変心強く思う。

  数年前にリタイア-してから朝夕この散歩道を歩いている。行き交う人達は皆さん穏やかな表情をしておられる。60年前、空襲におびえたこの道を家財道具をかかえて避難していった人々がいたことなど、とても想像できないだろう。つくづく平和は有り難い、と思う。

  間口の狭い我が家はこの散歩道の豊かな緑に何等の貢献もしていない。5年前初孫の女児誕生記念に植えたブラシの木が成長し、毎年5月に赤い花を咲かせ 「貧者の一灯」 とばかり周辺に彩りを添えているのが慰めになっている。