桜の木と柿の木と
 奥沢4丁目 鶴原 典子

第29号 2007.10.30

 近所のOさんが中学生の頃には今の八幡中学の前には大きな九品仏の池があってボートが浮かび、春にはそれを取り巻くように桜が咲いてそれはすばらしいところだったそうです。私が思い出すのも今の環状八号線が桜並木だった光景で、以前は本当にどこにでも桜の木がありました。

 特に昭和 40 年代に、八幡小学校の新入生に一本づつ配られた桜の苗が、子供たちの成長と共にそれぞれのお庭で、幹を伸ばし枝を広げて、約20年もたつと桜の大木が奥沢の住宅地のあちこちで見事な花をつけ、胸がふくらむような気持ちで見上げたものでした。

 昭和40年の初め、私たちは1才と2才と生まれたばかりの3人の男の子と共に奥沢の夫の実家に住むようになりました。鶴原の母が小さなアパートで3人の子供を育てる私たちのことを心配して庭先を整理して、その頃売り出されたばかりの小さなプレハブ住宅を建てることを提案してくれたのでした。昭和の初めに、このあたりが売り出された頃は、一区画 200 坪くらいだったそうで、まだどこの家も庭が広く色々な樹木が家を包むように植わっていたのです。   

 奥沢の家は、以前はOさんのご両親の新婚時代のお住まいで、玄関の横に天井の高いマントルピースつきの洋間がある他は全部和室の平屋。玄関脇の明り取り窓にはまった「馬に乗るジャンヌダルク」のステンドグラスがおしゃれでした。

 当時Oさんとご両親はうちと同じような建て方の北隣の家に住んでおられました。そちらのお玄関のステンドグラスは、竪琴の形になっていました。O家は回りに沢山の土地を持っておられて、道路を隔てた東隣は中が見通せないほど椿や山茶花などが茂った雑木林のように見えましたが奥にはジャガイモなどの畑もあったそうです。秋には甘い実を枝がしなるほどつける柿の木がOさんの畑にも母屋のお庭にも何本もあって、 奥沢に来てからも4人5人と増えていくうちの子供たちのためにOさんのお母様が一本の大木の柿の実を全部取りなさいと言って下さったこともありました。

 桜も柿の木も、そこにすんでいらした方々と一緒にすこしづつ消えてしまいました。秋になって葉を落とし始めた我が家のけやきもこれからどうなっていくのかなと考えます。