我家の御影石のこと
 奥沢2丁目 備藤 太郎

第4号 2001.4.1

 我家は緑が丘駅から西へ坂を上りきった一面にあり、大正の末期から昭和の初期にかけて、アメリカから帰国された方の家が、四・五軒、集まっていたことから、この一画はアメリカ村と呼ばれていた。

 その後時は流れ、太平洋戦争の真っ最中の昭和十八年の暮れ、我家でも庭に防空壕を造ることとなった。人命にかかわることなので、耐久性、耐火性に優れた御影石を使用することとなった。然し、石材を運搬するのにこの当時、民需用としてトラックなどをチャーターすることが困難を極め、止むなく、馬車で運搬することになった。

 緑が丘駅から未舗装の上り坂と、石の重量の悪条件が重なって、坂を上がることが出来ず、積み荷の石材を坂の下で一部を降ろし、何回かに分けて搬入した。

 御影石は、天板、梁、壁面、階段などに使用し、床面だけは、防水鉄筋コンクリートにし、頑丈で素晴らしいものが完成した。

 然し、その後父親が転勤になり、一家全員転居することになってしまい、一度も利用することはなかった。それから五十年、この防空壕は、ずっとそのまま我家の庭のど真中に鎮座していたが、五年前、家を建て替える際、やっとこの御影石は掘り上げられ、現在は庭の敷石、花壇の囲いなどに変身し、太陽の下で平和に美しく、家族の一員の如く輝いている。