むかしの奥沢
 奥沢2丁目 三浦 誠一

第71号 2018.4.24

 私が奥沢海軍村に移って来たのは小学六年生の時である。それまでは江戸時代の刑場跡近くの鈴ヶ森小学校に通学していた。八幡小学校への転校は卒業が近いのでせずに、鈴ヶ森小学校を続けることにしていた。

 大井町線は昭和2年に大岡山まで開通したが、鈴ヶ森に行くには家を出て竹藪の中を通り抜け、八幡通りに出る。そこから今の車両基地西角にあった変電所の下まで、当時「都市の地所」と言われていた何も無い原っぱの中を真っすぐ歩き、奧沢駅に出て田園調布まで行き、更にそこから会社の違う小さいボギー車に乗り換え蒲田に、更に国鉄で大森駅まで、そこから歩いて小学校へ毎日通った。田園調布蒲田間の運転手さんは田園調布で改札もしていた。ある日地図で諏訪分、新奧沢に電車の新線があるのを知り見に行った。奧沢駅から南に真っすぐの畑の中が終点で、雪が谷駅に引き返すところを見た。

 海軍村は本庁や横須賀の偉い人が多く居られていた。農地の中に畑や肥だめもあった。昔の地図にある海軍村台地の東側、沖の谷の先はドイツ村とも言われていた。海軍村の北側は松林で、そこを抜けると呑川支流(九品仏川)、当時は子どもでも飛び越えられる小さな川だった。 その先は畑や田んぼで、 遊ぶのには良い広場だった。工事中の中丸山駅(緑ヶ丘)では当時は機械がまだ無いので大きな松の木を工大の中に移すとか聞いたが、何人もかかって大変な作業に見えた。大岡山の大地から見えたのは奥沢の大ケヤキだった。今は枝が切られ情けない姿に なっている。でも毎年葉を茂らせてくれている。有難いことだ。大井町線工事で松林が最後になくなったのは海軍村の北西の角、今のヤマダ電機へ行く踏切の坂の上だった。

 226事件をラジオで聞いた。大雪で電車も止まって動かない。奧沢の駅の踏切に行ってみた。海軍村は忙しい。横須賀からか迎えきた水兵さんの運転する自動車を何台も見た。いつも駅から西に見えていた八幡小学校、その上に見えていた富士山は天気が悪くて見えず、遮断機の竹にも雪が積もっていた。