街の記憶を伝える
 平野 久美子 (以前、奥沢2丁目にお住まい)

第78号 2021.2.10

 異国の街角で、私は強いノスタルジアにとらわれたことがある。それは十数年前、台湾に残る日本家屋を取材に行った時だった。戦前、臺北帝国大学の教授らが住んでいた平屋建ての家々は、どこも200坪ほどの敷地があり玄関まで飛び石が誘う。客間のインテリアや窓はモダンな洋風だが、母屋には庭全体を見渡せる長い廊下が連なっていた。風情ある木造家屋と緑陰の濃い街角。それは私の脳裏に焼き付く昭和30年代の奥沢の風景と重なった。

 祖父が2丁目の”海軍村”に土地を購入したのは昭和3年。武蔵野の面影と畑が広がる中を、「タヌキに混じってスイカを失敬したり、空気銃でスズメを撃ったりした」と、父から昔話を聞いて育った私は、台湾の研究者にもつい、「この付近は、昔タヌキが出たでしょう」と質問した。すると「キョン(小型のシカ)もいたようです」と言われびっくりしたものだ。

 父の頃ほどではないにせよ昭和30年代の町内にはたくさんの遊び場があった。まだ舗装されていない道路にできる大きな水たまりにはアメンボウが泳いでいたし、暗渠になる前の呑川では魚が釣れた。”ドイツ村”と呼ばれる留学帰りの学者さんたちが住んでいたエリアは、探検にもってこいだった。あれから半世紀。思い出の詰まった子供時代の奥沢はすっかり姿を変え、ドイツ村も海軍村も消え失せた。砂利道を海軍士官が馬で通勤する際の、ひづめの音で目が覚めたという父の語り草はおとぎ話のようだ。

 私が台湾の日本家屋保存運動に協力するのは懐かしさばかりではない。新旧の住民同士が家の歴史を共有する交流に、学ぶことが大きいからだ。家の記憶は個人のものだが、時を経てそれは地域のものとなる。そう街の記憶だ。奥沢の今昔を語り継ぐことはアイデンティティーを次世代へバトンタッチする、大切なことと思っている。

台北市大安区に残る、昭和初期の日本家屋。海軍村住宅と類似点が多い。
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