九品仏池の一生

第36号 2009.8.1

 奥沢にお住まいの方には九品仏浄真寺の北側にあった九品仏池は、釣りをしたりボートに乗ったりして遊んだ懐かしい場所でしょう。池の誕生から、10年後、20年後そして消滅までを纏めてみました。10年後の昭和15年頃の様子は、第34号で鈴木和夫さんの「私の子供の頃の思い出」に掲載されています。

1.九品仏池の誕生

 九品仏池はいつどのようにして誕生したのでしょうか。これには二つの説があります。湿地であった九品仏川の周辺を客土して畑や宅地を作った、もう一つは東急東横線自由が丘駅の高架化するための土盛をするために池を掘ったという説です。今の玉川地区が昔玉川村と言われていた頃、村全体で大規模な耕地整理事業が行われました。その事業記録である「郷土開発・耕地整理沿革概要」に、昭和7年9月6日等々力北区第1工区工事着手(浄真寺の北側にある深さ一丈以上の不毛田約八町歩の一部を掘さくし、掘さく土を以って埋め立てを行い畑地に変換した。掘さくの跡が現在いわゆる九品仏池で面積3,440 坪である。)と記載されていました。一方昭和2年に開通していた東急東横線は、二子玉川線建設のために今の自由が丘駅を5.79m高上げし昭和4年4月竣工した(東急五十年史)と書いてあります。池は耕地整理でできたと思われます。

2.昭和27年頃の九品仏池

 子供の頃を尾山台に住み九品仏でよく遊んだ中村さんに、当時の思い出を詳細な絵と共に書いて頂きました。
 

九品仏池の思い出 駒沢2丁目 中村 卓実

 私が尾山台小学校の4年、5年(昭和27・28年)の頃、図画の授業時間に先生に連れられて浄真寺(九品仏)の境内で写生をしたり、また、学校が終わってから友だちと九品仏池へよく遊びに行きました。

 池は浄真寺の墓地の北側の崖下にあり、東西250 m、南北100mほどの大きさで、まん中に小さな島が一つありました。(図1)

図1昭和27年頃の九品仏池とその周辺

 池に入る水は、池から北西に少し離れた所にある湧水池から用水路を通ってアシはら(現在のねこじゃらし公園の北側)に流れ込んでおり、そこは足を踏み入 れると底なし沼のようにズブズブともぐってしまうので、誰もが怖くて近づきませんでした。

 また、池の水が九品仏川へ流れ出す所には水門があり、その北側にはボートハウスと乗り場がありました。(九品仏川は現在暗渠となっています)

 水門は、平面が約2m×2m、深さ約3mのコンクリート製の箱型の堰で、堰板の高さ(枚数)を変えることにより池の水位を調整していました。(図2)

図2水門の詳細

 周囲には細い道が回っており、墓地に沿った部分は人の高さくらいまで雑草で覆われ、歩くのに大変苦労しました。

 更に離れた北側と西側にはじゃり道が通り、その道路の外側には畑が広がっており、また池の東側には民家が何軒か見られました。(西側のじゃり道は現在の駒八通りで、北側の畑は現在八幡中学校となっています)

 池の水中には水藻が全体に繁り、深みも見られ、くちぼそ、ふな、手長えび、らいぎょなどの 魚が生息しており、水門からボート乗り場の間の土提でミミズを餌にしてよく釣り糸を垂れたものです。

 水門の堰の底には大きなアメリカザリガニが多く集まるので、スルメの切れ端をタコ糸で吊るし、ザリガニがはさみでつかんだ時にそろそろと引き上げて捕まえました。(図3)

図3アメリカザリガニ釣りの仕掛け

 また、夏にはしおからトンボ、むぎわらトンボ、糸トンボ、銀やんま、おにやんま、秋は赤トンボなどが多く飛び交い、中でも銀やんまはトンボの習性を利用したおとり釣りをして遊びました。
 

 まず、おとり用の雄の銀やんまをを網で捕まえ、胴体の青い部分を血止草などを巻いて隠してから、胴体を木綿糸でしばり竹竿を回して飛ばせていると、それを雌と間違えた銀やんまが交尾しようとしておとりに絡んでくる瞬間を地面に下ろして捕まえました。

図4銀やんまのおとり釣り
3.九品仏池の消滅

 ボートや釣り等の遊園地として住民の憩いの場となっていた池は、その後、東京急行電鉄の所有となり、渋谷の東急文化会館の建設(1956(昭和31)年12月1日に開館)で出た残土処理のために埋め立てられ住宅地になったようです。また九品仏川も今では暗渠となり、奥沢、自由が丘、緑ヶ丘に渡る遊歩道になっており川があったことすら忘れ去られている。九品仏池は、開発によって生まれ、また開発によって消滅する運命を辿ったのでした。 (鈴木)