東工大歴史探訪(少年時代の冒険)

第39号 2010.1.23

 昭和20年代に、公園・野球場・学校のプールが無い子供時代を奥沢で過ごした私たちにとって、東工大は、呑川・ひょうたん池・茂った暗い林の冒険、また構内に残っていた戦中の残留物の探検ができる貴重な場所でした。一方時計台のある東工大はどの家からも眺める事が出来たために、親からは「一生懸命勉強してあそこに入るのですよ」と説教されたものです。当時をしのぶため今回お2人と東工大を探訪し、写真や記録が殆どなかったため、大学を訪ね資料を提供して頂きました。(鈴木)

想い出の東工大 奥沢2丁目 宗 昭行

 戦争中の東工大を思い出すと一番強烈な印象が、夜の闇に浮かぶ時計塔の高い建物の不気味な姿である。幼い小学生には、さながらディズニー映画に出てくる魔法のお城の塔のように見えた。今と違って構内に高い建物が少なくアメリカ軍の飛行機の攻撃目標にならないように真っ黒の迷彩をほどこしていたためだろう。

 一方で、昼間の東工大は小学生に楽しい遊び場を提供してくれた、野球とプールである。その頃のキャンパスは、今と違って外から入れる入口が幾つかあって小学生でも簡単に入ることが出来た。野球少年だった私は、東工大のグランドで大学生の野球を見るのが好きだった。

 その頃の東工大は強く東都リーグの一部か二部にいた。青山学院大との試合を見た記憶が今もはっきり残っている、両チームとも揃いのユニフォームだったから二部リーグの公式戦だったかもしれない。

 小学校の高学年から中学二年生位までは夏休みはほぼ毎日、東工大のプールで泳いだ。このプールというのが実は恐ろしいところで、実験用の巨大水槽が夏場になると営業用のプールになるという代物だから、縦 20 メートル横15メートル程で深さが全面3メートルだった。泳いでいる最中に脚がつったりしたら大変、慌てると三メートルの深みから浮かび上がれなくなるので「あわてない、あわてない」と自分に言い聞かせて動く方の脚だけでゆっくりとプールサイドにたどりつくということが何度もあった。

 おまけに水の入れ替えも十分ではなかったのだろう、透明度も低いから底に沈むとなかなか見つからない。一シーズンに何名か水死者が出るという嘘か誠かの話も出て、数年後に公開をやめた。昭和26、7年頃のことである。

東工大の呑川で遊んだ子供 奥沢2丁目 赤松 章男

 小学生の頃の私に馴染み深かったのは、呑川本流より支流の九品仏川でした。子供の頃は呑川と呼んでいましたがいつのまにか九品仏川になってしまいました。明治以前には別の名で呼ばれていたようです。

 先日犬の散歩の時九品仏川緑道を辿り、ねこじゃらし公園迄行きました。九品仏の池や八幡中学校先の四角い溜池跡近く等、昔の風景が懐かしく思い出されました。私が八幡中学校に入学した頃には全て埋められて既に住宅地化されていましたが。

 子供達がたまに群れをなして遠征していたのが、九品仏川と呑川が合流する東工大でした。目蒲線沿いの道を歩いて行くと合流地点近くに、欄干が丸太1本しかない粗末な橋がかかっていました。すぐ側に平行して設置してある直径40㎝の水道本管を支え無しで渡るのが子供達のささやかな自慢でしたが、私は何度挑戦しても落ちそうでどうしても渡れませんでした。

 またある時は、年上の幼馴染みと一緒に東工大緑が丘地区東側の崖に露出していた粘土を取りに行きました。そこは等々力渓谷と同じように荏原台地を削って崖をつくり、川幅を広げ流れも早くなり、友達は下駄を流し溺れそうになりました。粘土といっても武蔵野台地の基盤である固い上総層群ではなく、その上に堆積している東京層(下末吉層)という質のよくない粘土質の泥岩層で、さらにその上には 5万年前の多摩川の川底で湧き水をもたらす武蔵野礫層が載っています。

 3人の記憶から当時の東工大遊園地の略図を作り、当時の景色を東工大の資料から選んでみました。読者から更なる情報を頂き、より正確なものにしていきたいと思います。(鈴木)