昔の九品仏川
 奥沢2丁目 遠藤 肇

第54号 2014.2.20

 私は奥沢2丁目15番地で生まれ育った。既に七十有余年が過ぎ去った。

 初めてのこの街との係わりは、私が産声を上げた後の母の言葉である。「産後の床から立ち上がれるようになって廊下から外を見たらケヤキの若葉が綺麗だった」

 家の周囲には亭々と聳えるケヤキが沢山有ったのだ。一本のケヤキを守る事が「土と緑」の活動の原点と伺っている。

 街との係わりは高校大学サラリーマンと年を重ねるに連れて希薄になって行った。拘束のきつい給料取りの生活を終えてこの十年、街の良さに気付き、住まう事に感謝している。

 子供の頃は通りのどのお宅にも子供がいた。学校が終わると通りに出て皆で遊んだ。今はどのお宅にも老人がいて、道に出て来るのは買い物の時ぐらい。これからは、隣は何をする人ぞ、とおせっかいの声を掛け合いながら暮らす事の大切さを感じている。

 昭和四十年代は、家々角々に目印になる様な巨木銘木が有り存在感を示していた。

 我が子を育てる様になって2丁目公園は良く利用させてもらった。公園デビューも娘はここで果たした。その頃は既に九品仏川が埋め立てられ、岸に有った桜も沢山切り倒された。お歯黒トンボが好きだったが、消えた。

 九品仏川には八幡中学の前の池から緑が丘まで沢山の橋が掛かっていた。小学校の頃、四つ五つ先輩に連れられてよく川岸を歩いた。その先輩は物静かな人で、何故私を連れ歩いてくれたか分からないが、私も大人しく付いて行った。先輩は橋の名前を覚えろと言う。今はすっかり忘れてしまったが、タニハタバシとか言って一つ一つ橋の名前を言いながら緑が丘の大学の方まで歩いた。いつも季節は秋だった様な気がするのはなぜだろう。ムクドリの大群が、立源寺の森の向こうに、移り変わる砂絵を描きながら飛んでいた。

 九品仏川の緑道に再び水が戻れば良いが、と橋の事を思い出しながら考えている。