第60号 2015.8.3
私は、現在の場所1丁目22番地(当時は1丁目158番地)で、産声をあげた。昭和15年12月、この年は、紀元2600年の慶祝で、国中が湧き上がっていたそうで、我が奥沢も提灯行列と人の波がいつまでも途切れることない賑やかさだったそうです。
以来74年の月日が、ながれたいま、こうして記憶をたどりながらも、こよなく奥沢を、愛した、遠い所の先人たちから、学んだ事を、記すことで、お手伝い出来ればと思っています。
これは、あとにつづくものに、残しておきたいと、古老、先人、から耳にしている私事で恐縮とは思いますが、文面をお借りして、記しておきたい思います。
奥沢史の探求に、生涯をかけて資料を収集された、故人となられましたが、我が師甲府方鈴夫さんのご指導のお蔭で、この道を歩いてこられたと思います。
郷土史研究家鈴木宗さんによる「奥沢史年表」によれば、1189年、頼朝の家臣の天野茂右衛門が奥州に下ろうとしたその途中、奥沢本村の大音寺付近で持病に苦しみ奥沢の地に留まったというのが奥沢に在住した最初のようである。幻のような、話ではあるが、いつまで語り継がれていくだろうか。
江戸時代の奥沢地域は奥沢新田村と奥沢本村に分かれていました。大音寺の位置する奥沢本村はわずか20余軒の農家があるばかりと聞いています。生家はこのうちの一農家であったことが当時の古地図に載っているので分ります。
今でも残る大音寺山門の二本の松は、村の頃から奥沢の移りかわりを見守り幸せを、願いながら大地に、根をしっかり踏まえ行き交う人々を元気づけています。
鷺草の里奥沢に、常盤姫の伝説ようなロマンがうまれれば。こんなことを思いながら。