第67回 2017.4.20
今回、鈴木 仁さんとのご縁で会報誌に寄稿させていただくことになりました和田泰彦と申します。昭和28年生まれの若輩者ですが鈴木さんと“奥沢地誌保存会”での活動でご一緒させていただき奥沢についての興味深いお話をいろいろ楽しくお聞きするうちに今回、執筆の運びとなりました。
さて、私の育った時代は日本が経済的に豊かになりつつある大変平和な時代であったと思います。言うまでもありませんが戦争が無かったことがその理由にあげられます。識者によると世界中で70年も戦争をしなかった先進国は無いそうです。この素晴らしい時代の波になんとか乗って、この街奥沢で生きてこられたというのが実感として正直なところでしょうか。
奥沢も私が小さい頃にはまだ畑が点在しておりました。田んぼがあった記憶はありませんが我が家が耕作していた線路道(目蒲線)沿いの麦畑の中を動き回り身体中かゆみを感じたことがつい最近のように思い出します。奥沢で育った麦をどこに出荷してどんな食品、はたまたどんな家畜のえさにになっていたのか、今では亡父に聞く由もありません。とても懐かしい思い出です。私の家は代々百姓をして生きながらえてきました。平成4年ごろまで私の父は趣味で30坪ほどの畑で自家用に作物をつくっていました。
子供のころの友人と工大(東京工業大学)構内を駆けずり回り木登り、チャンバラ、ザリガニ釣り、いかだ遊び等をしたこともよい思い出です。都会の大学敷地内でも十分に自然と親しむことが出来たように思います。いかだ遊びの最中に瓢箪池に落ちてあわや死に損ねたことも苦い思い出です。この時、助けていただいた当時の工大の学生さんにお礼も言えなかったのが、今でも唯一心残りです。
小学生時代、同級生とその従弟さんとよく野球をしました。家の大人用の重たい自転車の荷台に野球道具を積んでバットを泥除けのわきに括り付け大汗をかきながら多摩川台公園と亀の甲山公園の間の道を登って広々とした多摩川河川敷が見えた時の風景が今でも瞼に焼き付いています。
今の奥沢は住宅が建ち並びもう、畑もほとんど見られなくなりましたがこれからも少しでも土と緑が残っていくことを切に願っています。
子供のころの思い出を取り留めもなく書き連ねましたが、あと三年で2度目の東京オリンピックを見ることがこのすばらしい街、奥沢でできるのも大変幸せなことだと感じています。これからもご指導、ご鞭撻よろしくお願いいたします。