第7号 2002.2.15
二階へ行く階段の床に焼夷弾が突き刺さって高い天井へ向けて火を吹いているので、階下からバケツで水を運んでぶつけてみても、火は上へ上へと燃え拡がってゆきます。それでも必死で母と交替しながらバケツの水をぶつけました。もう駄目と思った時、ふっと急に火勢が衰えてどうやら消し止めることに成功、父が屋根へ昇って上から火叩きで炎を叩いたのが効果があったのでした。終わってみると私の防空頭巾も防空服も沢山の焦げ跡があって、よく火だるまにされずに済んだあとで怖くなりました。次の日防護団の方達が来られて調査すると、家の東側庭、建物から2メートル位の所に八発の不発焼夷弾が並んで埋まっていました。畑にしていて土が柔らかいので発火しなかったのでした。これ等の弾が家に当たっていたら到底防ぎ得ず、わが家もその夜焼け落ちたでしょう。初めての消火作業で夢中でしたが、その次に又同じようなことがあったなら、多分その時は逃げてしまったかもしれません。その夜奥沢教会とその隣接の家々、またわが家のお隣り、筋向かいのお宅二軒など、皆沢山の焼夷弾の直撃を受けて全焼、焼跡に佇まれた当事者の方々のご心境は推し量り難いものでした。その頃はたとえ国は焦土と化しても日本国民は最後の一人まで闘うという心構えでした。罹災も戦死も同じく名誉でもあった国民感情を昨今の世代の方々にご理解頂けるでしょうか。
そして東京の大空襲は5月25日で終わりました。以後は地方都市が次々と空襲を受け、広島・長崎に原爆が投下されます。8月15日の玉音放送はその内容を耳を疑う思いで聞きました。ゲートルを巻いた父が縁側に腰かけて言葉なく、身動きもせずにいた姿が鮮明です。
階段と天井がまっ黒に焦げていたのを度々修理しても雨漏りが治らず、長い間に度々手を加えやっとこの頃は無事、そして文様のような焦げ跡も歳月と共に薄れて来ました。何しろ毎日昇降して踏む場所ですから。
そして近頃世界に漂う危うい戦争の気配、一般庶民から平和を奪い取るような道は絶対に避けるように。それだけが唯一の正しい道と考えて祈る昨今です。