おくさわ今と昔『昔』

モチの木の想い出
 奥沢4丁目 江川 洋子

第26号 2007.1.23  我が家の仏壇の引き出しに、義父が書き残した師息集という冊子があります。江川家の家系図、家紋、出生、結婚、死亡など家族の消息が記録されています。それによると、義父は新潟県五泉市の本家より分家して、昭和13年(1938)奥沢に居を構えたとあります。  姑の話によると、家の東側のぬれ縁に立つと、奥沢駅ホームにいる義父の姿が見えて、手を振って「行ってらっしゃい」をしたそうです。まだ家もあまり建っていなかったそうで、現在ではとても信じられない、のどかな風景だったようです。  昭和33年(1958)私は江川に嫁ぎました。当時、江川の家は、入り母屋造りの屋根、赤金の雨樋、玄関は 二枚の格子戸を左右に開けるなど、平屋の純日本家屋でした。門かぶりの赤松があり、サツキの生け垣は、花の季節になると、美しい紅色に染まりました。  野趣豊かな庭には、泰山木、モチの木、モミジ、柿などが…

とんぼ釣り
 奥沢5丁目 山崎 忠

第27号 2007.5.6  我が家の前の通りを北へ自由が丘の方に行くと、呑川(九品仏川)にかかる権現橋にぶつかった。今はその場所は橋も無く暗渠になり、桜並木の遊歩道になっている。大井町線の線路をまたぐと其処は一面の畑で、夏になるとトンボ釣りの場所になった。半袖シャツに帽子をかぶり、近所の友達と胸を躍らせながら坂を下ったものである。  ギンヤンマ(オス)に朝顔の葉っぱを巻きつけてチャンに見せかけ、木綿糸を長くつけてギンの鼻先でブンブン廻すとガシャガシャと羽のこすれる音がするのだが、ギンは飛び去ってしまう。ギンを捕まえるのはむづかしい。  ギンヤンマは時々じっとして辺りを窺うような格好をする。その時は威圧感があって普通のとんぼとは思えない。しかしその後はぐるぐると旋回して普通のとんぼに戻ってしまう。ギンよ来いよ、チャンがいるぞー。採った魚に餌はやらない、そう、採ったとんぼは母の言いつけで皆放…

桜の木と柿の木と
 奥沢4丁目 鶴原 典子

第29号 2007.10.30  近所のOさんが中学生の頃には今の八幡中学の前には大きな九品仏の池があってボートが浮かび、春にはそれを取り巻くように桜が咲いてそれはすばらしいところだったそうです。私が思い出すのも今の環状八号線が桜並木だった光景で、以前は本当にどこにでも桜の木がありました。  特に昭和 40 年代に、八幡小学校の新入生に一本づつ配られた桜の苗が、子供たちの成長と共にそれぞれのお庭で、幹を伸ばし枝を広げて、約20年もたつと桜の大木が奥沢の住宅地のあちこちで見事な花をつけ、胸がふくらむような気持ちで見上げたものでした。  昭和40年の初め、私たちは1才と2才と生まれたばかりの3人の男の子と共に奥沢の夫の実家に住むようになりました。鶴原の母が小さなアパートで3人の子供を育てる私たちのことを心配して庭先を整理して、その頃売り出されたばかりの小さなプレハブ住宅を建てることを提案してく…

私の子供の頃の思い出
 奥沢3丁目 鈴木 和夫

第34号 2009.1.26  私が釣りを始めたのは、お祖父さんに連れられて多摩川に釣りに行ったのがそもそもの始めでした。小学校の4年・5年 (昭和14・15年頃)になるとお小遣いを貯めて、緑が丘の釣道具屋で延べ竿一本と、てんぐす糸、浮子、錘、針、缶びくを買って家で仕掛けを作り、ミミズを掘って友達と奥沢から自由が丘を通り、九品仏川を遡り九品仏の池に行きました。当時の池の周りは、お寺の墓地の下は崖になり、その下に池を廻る細い道がありました。池から流れ出す九品仏川の流れ出しの所に水門がありそれを過ぎると道路まで人家がありました。道路の向かい側は畑で、現在は八幡中学校になっています。  此処は、九品仏のお寺が奥沢城であったときは底無しの湿地帯で城の北方の守りとなっていたと思います。それは、後年教師として八幡中に赴任した時に、生徒が校庭へ出て多人数でマラソン練習をすると地面が波うつ事と、鉄筋校舎に…