鷺 草 伝 説

悲劇のヒロイン 常盤姫
 世はまさに戦国時代。各地の大名が兵を起こし、群雄割拠の様相を呈していたころのこと。世田谷から衾村 ふすまむら、碑文谷郷一帯は、世田谷城主吉良頼康の支配下にあった。
 頼康は、奥沢城主大平出羽守の娘常盤 ときわ姫を側室として迎えた。やがて、常盤 ときわは子をみごもったため、頼康はことのほか常盤 ときわをいつくしむようになった。
 血筋を絶やしてはならない大名のしきたりに従って、頼康には、常盤 ときわのほかに12人の側室がいた。彼女たちは、頼康を一人占めにする常盤 ときわをねたみ、「常盤 ときわ様のお子は、殿のお子かどうか疑わしい」などと、まことしやかに頼康につげ口し、常盤 ときわへの愛情を妨げようとたくらんだ。常盤 ときわの悪いうわさを、頼康は否定しながらも、心の中にはいつの間にかどす黒い疑惑の霧がたち込めていった。自然と常盤 ときわへも冷たい仕打ちをするようになった。
 とりなしてくれる者も無く、悲しみに暮れた常盤 ときわは、「いっそ死んで、身の潔白の証しにしよう」とまで思いつめた。奥沢城の父にあてて遺書をしたためると、小さいころからかわいがって、輿 こし入れの際にも一緒に連れて来た、1羽の白鷺の足に結びつけ、奥沢の方角へ放った。
 主人のただならぬ様子をさとったかのように、白鷺は奥沢城目指してまっしぐらに飛び去った。ちょうどそのころ、衾村 ふすまむらで狩りをしていた頼康は、この白鷺を見つけ射落としてしまった。みると、足に何やら結びつけてある。不審に思って開いてみると、姫から父へ覚悟の自殺を報じた文であった。驚いた頼康は、急ぎ城に帰ったが、時すでに遅く常盤 ときわは自害し果てた後であった。傍らには、死産の男の子の姿があった。
 疑いは晴れたが、もう常盤 ときわも子も戻っては来ない。深く後悔した頼康は、せめてもの償いにふたりの霊を慰めようと、領内の駒留 こまどめ八幡宮に若宮と弁財天を祀ったのである。
 一方、使命半ばにして倒れた白鷺は、よほど無念だったのか、その地に鷺の飛翔する姿の花を咲かせる草になったという。


 出典:目黒区ホームページ(世田谷区のホームページに鷺草伝説は紹介されていませんでした。)