第10号 2002.12.17
奥沢に移ったのは大正15年3月末で、76年昔のことである。小学校6年生になる時で、中学受験までの一年間原宿の小学校に電車通学をした。従って今日思い出を語り合える友達もなく、往時の記憶はおぼろげに残っているに過ぎない。
地名は当時の東京府荏原群玉川村大字奥沢字沖の谷から東京市世田谷区玉川奥沢町1丁目、つづいて東京都に変わり、さらに奥沢2丁目となって、その後現在の住居表示となった。巷間奥沢といえば海軍村のあった所といわれるが、海軍士官の家が比較的多かった為であろう。私の父も海軍士官であった。関東大震災後、東京市内に貸家が少なく、東京勤務の士官が住宅に難渋したので、海軍当局が低利の貸付で持ち家を奨励する制度を設け、一方海軍大学校の目黒移転の計画もあり、地価も程々であり、交通の便も相まって奥沢が選ばれたのではないか。当時2丁目の海軍村には30数戸程あったが、戦災や移転などで現在は15戸程になっている。
当時は家並も少なく、現在奥沢動物病院のある辺り一帯が一面雑草の原、駅から我が家の屋根が眺められた程である。我が家の周囲は一面麦畑でひばりの鳴き声も一日中聞かれた、反面春先の風の激しい日には座敷の畳が砂埃と共に吹き上げられることもあった。竹林も多く、美味しい筍が食膳に上がる事も多かった。お医者様も二軒位しかなかった様に思う。郵便局も地元の原武雄氏が局長で、初めてお米屋の近くにできた。
道路の区画整理が出来なかった為、水道・ガスもなかった。井戸水を手押し又は電力のポンプで屋根の上の貯水タンクに汲み上げ、水道の代わりに使った。ガスの代わりは電熱コンロや石油コンロであった。電話は昭和5,6年頃に通じた様に思う。交通機関は目蒲線だけであったが2〜3年位経って東横線、つづいて大井町線が通じ、便利になった。緑が丘駅は始め中丸山と称していた。現在の一色電機の隣に夏はかき氷、冬は焼き芋を売る店があり、その後主人が駅で人力車の立て場を持っていた。
終わりに私は2〜3年来庭に小鳥の巣箱を設け、シジュウカラのひなの巣立ちを楽しんでいるが、奥沢にこの様な環境が保たれることを願うものである。