奥沢近辺の城址と地名の謎⑦

60号 2015.8.3
その他の城址(ⅵ)江戸氏喜多見陣屋、喜多見城、木田見氏、多摩川洪水

 今回は多摩川を少し遡った世田谷の南西部北見にあった喜多見氏陣屋跡・喜多見城の紹介をする。
 喜多見城主江戸氏の祖先は古く桓武平氏出身で秩父に住み着いた秩父太郎大夫重弘の五男江戸太郎重継である(12世紀)。その子重長のとき今の東御苑付近に館を構え、一族が関東南部に広く住み着いた。
 しかし、14世紀には次第に衰え、15世紀重廉のときに江戸の城館を太田資長(道灌)に譲り、世田谷の喜多見に移り、吉良氏に従った。
 北条氏が武蔵野国に進出すると、吉良氏了解の下に北条氏の直接指揮を受けるようになった。天正8年(1590)北条氏滅亡後、江戸氏は姓を喜多見と改め、喜多見五郎左衛門勝重が徳川家康より旧領喜多見村に500石を安堵され旗本になった。関が原戦に参加、2000石に、更に綱吉の頃2万石に加増されたが、分家が争いを起こし、お家断絶となった。
 江戸重廉が喜多見に移る以前からここには北見(木田見)氏および熊谷氏がいて所領争いの記録も残っているが、1221年の承久の乱の勲功により安芸国三入(ミイリ)庄の地頭職に任ぜられていて、世田谷にはいなかったのではないかと考えられている。
 この辺りは多摩川の氾濫原の立川面であり、川筋が絶えず変化している為、地形も変わり、殆ど流されているので、遺跡はあまり残されていない。
 喜多見氏の館にしても一度流され、「世田谷の中世城塞」の著者元郷土資料館編集委員三田義春氏の推測によれば、地図に示された竜王の淵(字(アザ)竜王)が前期の城域ではないかという。
 慶元寺はもと河川内に、氷川神社は竜ヶ淵にあったのが、洪水で流されて現在地に移されたといわれている。氷川神社があった龍ヶ淵の名は現在残っていないが、近くにある多摩川と野川の合流点には旧宇奈根村字竜王があり、形も奇妙だが半分は河原となっている。ここが前期の陣屋跡と考えたわけである。考古学的証拠はないが、字(アザ)等の古地名があり、流される前は竜王の淵が多摩川によって削られた崖になっていたと考えるとかなり確度が高い説と思われる。
 また、後期陣屋はよく氷川神社から慶元寺辺りと考えられているようだが、直接的な証拠はない。三田義春氏は空堀跡といわれるものは、町田・宇奈根両川の付替水路や釣堀跡を誤認したもので、むしろその東側に続く旧字陣屋の辺りが新しく変わった多摩川の流れに接し、守り易いと考えている。この辺りには喜多見古墳軍があるが、直接的証拠は少なく確かなことはわからない。
 尚、少し離れるが、砧中学校付近には砧中学校古墳群(4基)があったが、現在は4号墳のみが校庭の一部に保存されている。ここは野川と仙川に挟まれた舌状台地で、古墳群のほか先土器時代の遺跡群が並び、特に嘉留多遺跡からは世田谷区最古(役3万年前)の石器が発掘されている。
(赤松章夫)

世田谷中世の要塞より
世田谷中世の要塞より