生活環境の移り変わり…
 奥沢2丁目 小田島 鏡子

第52回 2013.8.6

 転居してきた時代は、昭和47年田中内閣の「日本列島改造論」で地価が高騰し、48年には円が変動相場制に移行し円が急騰10月にはオイルショック、ガソリン・トイレットペーパー等の品不足、買いだめ騒動、49年には狂乱物価等世の中の大きな変わり目のころだった。奥沢区民センターや図書館、学童クラブ(今の子育て広場)が開設した頃でもある。印象に残っている景色は一面にサツキが咲きこばれていたお宅や紅白の梅、桜、槿、百日紅等きれいな花を咲かせる樹木がそこかしこにあり、紫の花大根が目を楽しませてくれた。カエルをしばしば目にし、青大将には怖くなり、塀を行き来するヤモリをジッと観、ネズミはパチンコ(鼠捕器)で仕留め天日に晒してゴミに出した記憶がある。

 九品仏川緑道(49年に保育園の前の目黒区側、53年に八沢川前の世田谷区側)、53年に奥沢2丁目公園が整備され桜や藤、金木犀等樹木の花を楽しむ場所が増えてきたが、平成に入って個人宅の緑は減ってきたような気がする。今も変わらない奥沢神社の緑はまちの貴重な資源である。トイレを水洗に替えても下水未整備で直接放流できず浄化槽を設置しなければならなかった。側溝の掃除と蚊の幼虫であるばうふらを退治するために、配付されるスミチオン乳剤を撒いていた。

 ゴミは収集場所にポリバケツで出すことになっており、回収の問題に共働きの我が家は随分困った。後に黒いビニール袋でもOK、分別収集にあわせポリエチレンの半透明袋の使用、カラス対策でゴミネットや組み立て式の箱等、、、時代環境に合わせて変化したが、資源の有効活用・町の美化ともに区民と行政の協働が大切と思う。

 生鮮食品の買い物はサンケイビルの店やピーコックに行っていたが昭和56年に東急ストア自由が丘店がオープンし、医療機関も近くにあり本当に住み易いまちである。これからもこの環境が維持できるようにささやかながら努力していきたい。