奥沢の字(あざ)について③

48号 2012.8.9
奥沢新田の字名とその由来

 今回は奥沢新田村の字(あざ)を紹介する。現奥沢4~8丁目に当たる。字名の地図は毎回載せているので、今回は奥沢全体の詳しい地図上で現丁目と字名を対比させてみて欲しい。
現5・4丁目から8丁目方向に紹介していくと、先ず奥沢神社の周り(現5丁目)は神社の旧名八幡様から名前を取り「八幡前」と呼ばれていた。この付近には縄文遺跡が点在している。
 一方、目黒線の南側(現4丁目)は「赤坂(丸)」である。北に向かう傾斜面で赤褐色の関東ローム層が露出していたので付いた名前である。尚、奥沢本村「丸山」(現3丁目)との境界は銀座通りで、西側境界は八幡小学校に至る。
また、九品仏川沿いは「鷺ノ谷(さぎのや)」と呼ばれ、旧「沖ノ谷」の西部を主体として自由が丘駅の西側まで続いていた。字名は鷺草が自生していたから付けられたのであろう。
 現5丁目で「八幡前」の西側地域は「佛山」と呼ばれていた。昔その辺りで仏像が見つかり、近くのお寺に納めたからといわれているがどこの寺に納めたかは分かっていない。
 その西側、現6丁目の北半分は「千駄丸」である。三方が急斜面で耕作に恵まれず、千駄とは雑木林で薪、炭、萱等を主に採取した土地だと考えられる。奥沢はこのように耕作に適さない荒れ地が多かったようであるが、奥沢に限らず世田谷区・目黒区共竹藪・山林・草地などが多かった。
 また、奥沢6丁目の南半分と玉川田調布2丁目を合わせて「五斗免」という。乾燥し易い台地で租税が5斗免除されたかららしい。
 現玉川田園調布2丁目の南半分は元等々力の飛地で「六本松」と呼ばれた。国分寺崖線上の細長い台地で自然林であったが、開墾の折残した松が6本、大木に育ったところから付けられた字名であろう。
 浄真時及び九品仏駅周辺の現7丁目は「城前」という。多分元は奥沢城址の南側を指していたと思われる。その西側は「大坊野」と呼ばれているが、その先、奥沢の西端に当たる「等々力前」と「城前」は『新編武蔵野風土記』(江戸時代)には記載されてなく、「大坊野」だけしか記載されていないので、明治初年に新しく付けられた字名と考えられる。現在は尾山台・等々力に編入されている。昔は等々力駅近く迄奥沢に入っていたことがわかる。
(赤松章夫)
参考資料 世田谷の地名下巻世田谷区教育委員会編