常磐姫の頃以前の奥沢①

51号 2013.4.30
歴史としての奥沢、縄文、弥生、古墳、江戸

 丁度今地域風景資産の選定で、『奥沢城址をめぐる鷺草伝説』を推薦、主に鷺草伝説について書いたので、此処では歴史的事実について書いてみたい。 

浄眞寺総門

 荒れ地は奥沢だけでなく武蔵野台地全体がそうであり、江戸時代でさえ農民は喘いでいた。最大の原因は地下水面が深く水が得られないことである。玉川地域の農民は自分のところを流れる呑川の水さえ自由に使えなかったことは意外と知られていない。街歩きで桜新町に行った時品川上水跡地見学の中で話す事が出来た。原因は大名屋敷と天領である大田区六郷の豊かな水田にあった。  

奥沢城址の土塁

 やがて古墳時代になると関東は南北に有力な国ができ、大和朝廷の役人が仕切るようになった。その南の勢力の主が亀甲山古墳に埋葬されていると考えられている。その後も宝来古墳や観音塚古墳を始め多数の円墳をまとめて古墳群を作っている。この頃には奥沢では九品仏川(丑川ウシカワ)の鷺の谷や浄真寺裏あたりで細々と始めていたのであろう。
 

奥沢城址の土塁

 奥沢では九品仏駅東側に奥沢台遺跡がある。もう既に二十数回発掘が繰り返されている。先日区役所で小さな小さな展示会が開かれた。一応本会でも見に行き撮影してきたのでミニ園遊会に展示したい。
 そこを中心に諏訪山遺跡・浄真寺境内遺跡他いくつかの散在遺跡がまわりにある。いずれも縄文前期~後期の時代で古い時代はない。しかし、そこで忽然と消えてしまい、弥生時代以降が見当たらない。これは多分奥沢が草地・竹林を中心にした荒れ地で、狩猟生活の縄文時代は生活出来るが、農耕文化の弥生人にとっては水田を作るところが殆ど無く住みようがなかったからであろう。  

奥沢城址の土塁

 九品仏川の数軒の農家は別として、奥沢の台地に初めて歴史に残る形で入ってきたのは誰であろう。奥沢神社発行の郷土史「おくさわ」(竹内秀雄執筆、後日編集に携わった鈴木宗氏は当時氏子総代で奥沢郷土史会の会長さん)によれば、頼朝の奥州攻めに際し義経討伐を諫めた天野茂右エ門が容れられなかったので、浪人して大恩寺付近で病に倒れこの地に留まったという。また、北条氏に滅ぼされた和田一族の一部が流れてこの地にやってきて家臣団約20人と居着いたとも言われている。その時の和田氏と家臣団の子孫は現在も在住しておられる。この辺りの話は書物を読み、人から話を聞かされるだけでまだ自分では調べてはいない。このときの約20軒はそのまま奥沢村→奥沢本村となり、明治になる迄続く。江戸時代中期に奥沢新田の農民の願い出により幕府から奥沢城址の使用を許され浄真寺が出来ることになる。
 

奥沢城址の土塁

 吉良家が上野国飽間(アキマ)から世田谷に入ったのが14世紀である。城自体はそれ以前からあったのかも知れない。奥沢城についても全く記録が残っていないのでいつ頃出来たのかわかっていない。2つの城の話は次回にまた。
(赤松章夫)