Category Archives: 奥沢の歴史を訪ねて

奥沢近辺の城址と地名の謎③ 世田谷城址( ⅱ )

世田谷城址(ⅱ)城郭構造、土塁、堀  さて、世田谷城址の城郭構造をみてみよう。城址として土塁が残されているのが、世田谷城址公園と隣の東京都公社豪徳寺アパートであり、土塁・空堀井戸・土坑・溝・釜跡等が現存している。いくつかの曲輪(郭)は区画がはっきりしていて、世田谷城址公園として既に整備されている。但し、現在のような姿の石垣は当然のことながら当時は存在していないと考えられる。 世田谷城址公園は、入口に設置されてある石碑を読むと、世田谷区が東急の前身である玉川電気鉄道より所有地の寄付を受け、公園にしたようである。世田谷城址では豪徳寺の第1次調査に続いて第2~6次調査及び立会調査が行われている。東京都公社豪徳寺アパートの隣にあったパナソニックの社宅は他社の所有となり、2005年に共同住宅建築工事の届けがなされた。東京都旧跡である世田谷城址範囲内であるので、現状変更届を出させ、立会調査を実施、建物…

奥沢近辺の城址と地名の謎④

その他の城址(ⅲ)三宿城址、瀬田城址  今回は世田谷城址、奥沢城址以外でその存在が伝えられている城址(砦)を紹介したい。 世田谷区には城址又は砦址と伝えられている物が十数余存在する。そのうち遺構として土塁等が残存しているのは世田谷城址と奥沢城址のみである。 世田谷城址の周りには城址又は砦跡として、烏山城址(砦)、船橋砦、赤堤砦、三宿(多聞寺)砦、弦巻砦、大蔵城(砦)等があるが、世田谷八幡、勝国寺にもいざというときは砦の役目をすると考えられている。 八幡神社は応神天皇・宇佐神宮を総本宮とするが、源氏が守り神とした為関東で勢力を強めた源氏によりたくさん建てられた。世田谷区も足利氏系の吉良氏や源氏出身の徳川氏等の支配を受けているので、50社中12社と多い。神社の系統については別の回にまとめる。 世田谷南部を護る奥沢城周辺を見てみると、南條氏の小谷岡城(兎々呂城・深沢城)、長崎氏の瀬田城(行善寺城…

奥沢近辺の城址と地名の謎⑤

その他の城址(ⅳ)兎々呂城址(都立園芸高校)南條右京亮深沢村名主後御家人  今回は兎々呂城址を中心に紹介する。 世田谷南部を守る奥沢城周辺を見てみると、南條氏の小谷岡城(兎々呂城・深沢城)、長崎氏の瀬田城(行善寺城)、野毛砦(等々力城)、大平砦(奥沢小)、朝鮮丸砦(大音寺)、出張り(田園調布中)等が言い伝えられているが、最初の2城以外は不確実で推測の域をでず、否定する意見もある。 後北条氏の家臣南條右京亮重長が北条氏康のもと安房里見義弘に矢切の渡しの戦いで破れた後、夜襲に軍功をたて、深沢村の兎々呂城を賜った。そこは現在都立園芸高校のあるところではあるが、とても城を構える適地とはいえない。緩やかな斜面があるのみである。 等々力の名前は①この「兎々呂城(トドロキと読む)」説と②源実朝家臣土岐左衞門が深沢にもともと住んでいたから「土岐の城」説と③不動の滝の音が「轟く所」説とがあるがどれかは不明で…

奥沢近辺の城址と地名の謎⑥

その他の城址(ⅴ)赤堤城址(善性寺、または六所神社)  今回は世田谷城北の守り、赤堤砦跡を紹介する。烏山川は世田谷城趾公園の南側を流れ、国士舘大学で深い崖線を作っているが、その北側一帯はなだらかな台地を形成している。 その北側に小さな崖線をもった北沢川が流れている。ちょうど小田急線の豪徳寺駅北側を流れ、梅ヶ丘駅羽根木公園南で小田急線を渡り、やがて三宿・池尻の境界で烏山川と合流し、目黒川と名前をかえて、目黒・中目黒の桜並木に続いている。合流地点にあるのが前回紹介した多聞砦である。 豪徳寺駅北側で1本の沢が北沢川に合流している。特に名前はないが、世田谷線(旧玉電)に近いところを流れていた。 その沢と北沢川の間の台地が水田に取り囲まれ半島状に延びていて赤堤砦跡といわれている。小さな崖線なのでそれ程高低差はない。 現在はそのまま善性寺というお寺になっている。正面に石段があり、小さな崖が続いている。…