Category Archives: 奥沢の歴史を訪ねて

奥沢近辺の城址と地名の謎⑦

その他の城址(ⅵ)江戸氏喜多見陣屋、喜多見城、木田見氏、多摩川洪水  今回は多摩川を少し遡った世田谷の南西部北見にあった喜多見氏陣屋跡・喜多見城の紹介をする。 喜多見城主江戸氏の祖先は古く桓武平氏出身で秩父に住み着いた秩父太郎大夫重弘の五男江戸太郎重継である(12世紀)。その子重長のとき今の東御苑付近に館を構え、一族が関東南部に広く住み着いた。 しかし、14世紀には次第に衰え、15世紀重廉のときに江戸の城館を太田資長(道灌)に譲り、世田谷の喜多見に移り、吉良氏に従った。 北条氏が武蔵野国に進出すると、吉良氏了解の下に北条氏の直接指揮を受けるようになった。天正8年(1590)北条氏滅亡後、江戸氏は姓を喜多見と改め、喜多見五郎左衛門勝重が徳川家康より旧領喜多見村に500石を安堵され旗本になった。関が原戦に参加、2000石に、更に綱吉の頃2万石に加増されたが、分家が争いを起こし、お家断絶となった…

奥沢近辺の城址と地名⑧

その他の城址(ⅶ)等々力城址(野毛砦)古墳の狼煙台利用、鎌倉道  今回は奥沢のお隣さん等々力にあったと伝えられている等々力城跡について紹介する。 世田谷の城塞の著者三田義春氏はむしろ野毛砦と呼ぶほうが相応しいと考えているようである。 「ノゲ」とは東国の土俗古崖地を指しているという。しかし、この辺りは等々力渓谷があるものの急峻な崖はなく、むしろ付近よりなだらかといってよく、六所神社と善養寺の間から神明祠近くに上る鎌倉道が伝えられている。 従って六所神社から谷沢川右岸の崖が多摩川から攻め上ってくる敵に対しての防御線になる。ここは多摩川河原に降り、下野毛の渡しに通じている。 只、善養寺は江戸時代の慶安年間(1648~52)に深沢村から移転してきたものと伝えられているが、都天然記念物にされている大榧(カヤ)の木の樹齢が600~700年とみられているので、善養寺以前から神社・仏堂・祠などがあったと考…

奥沢近辺の城址と地名⑨

その他の城址(ⅷ)烏山城址(砦、ウテナ化粧品工場跡地)、番所・常盤橋番所  今回は城址・砦紹介の最後として烏山城址(砦)と吉良氏が街道の要所々々に置いた番所について書く。 烏山城址は芦花公園駅の南側一帯で、烏山川とその支流及び現京王線に囲まれた長方形の区域になる。水田面からは2~3mの高さで、東西と南側は烏山川及びその支流の水田に囲まれている。元々ここに世田谷城の北西を守る為(対上杉・武田)の砦があって当然であるが、はっきりしていない。 天文4年(1535)高橋氏高は後北条氏の命によりここに城を築いた。これは同所の高橋竜蔵氏所蔵の「高橋系図」に記されている。「高橋系図」によると、高橋氏高は後漢孝霊帝31代末裔「劉高種」の子であり、色々あった後、北条早雲に戦い方が気に入られ、従うようになった。 小田原城敗北後、北条氏直に従い、一時高野山に入ったが、氏直没後烏山に戻った。高橋氏のことは新編武蔵…

奥沢史跡巡り①奥沢郷土史研究家( ⅰ )

奥沢郷土史研究家 鈴木宗氏(奥沢郷土研究会会長)、大谷修二氏(奥沢物語著者)  奥沢には数年前迄、世田谷区誌研究会とは別に奥沢郷土研究会があった。会長は奥沢の歴史に大変造詣の深い4丁目の鈴木宗氏で、区誌研の理事や区教委文化財指導員をしており、奥沢出張所の後援のもとに何度か奥沢の史跡巡りを実践していたようである。 まちめぐりの栞には、浅野浩氏、甲府方鈴夫氏、矢花静真氏、石井一正氏、野口末吉氏(講師)などが史料提供をしていた。その栞は奥沢出張所の2階コーナーにまだ保存されているかもしれない。鈴木宗氏は奥沢神社の氏子総代もしており、奥沢神社史は鈴木宗氏が編集に当たられたようである。それらとは別に大谷修二氏により『奥沢物語』が書かれている。お目にかかれないうちに奥沢の歴史に詳しい方々が亡くなられていって残念である。 その他公的機関や銀行や商店街等の各企業出版物には色々載せられているようである。その…