おくさわ今と昔『昔』

昔のアルバムから
 奥沢4丁目 浅枝 暉雄

第22回 2006.1.25  子供の頃からオートバイや自動車が好きで、父からもらったミニカメラ(ミノルタ16)を持ってあちこと遊びまわっておりましたので、そのころの写真を取り出してみました。  (1)は昭和27年ごろ、奥沢4丁目の家の近くの道路を環八方向から目蒲線の線路に向って写したものです。奥の方に架線用の鉄塔が見えます。道路はまだ未舗装で、下水用のU字溝にほとんど蓋がないのがわかります。塀はほとんどが生垣でした。手前にあるのは 子供のころ最初に運転させてもらったシルバービジョンのスクーター(1949年型)です。大変小さく、安定していて、13才ごろだったと思いますが、遊園地の自動車に乗るような感じで乗れてしまったのをおぼえています。ブルーの車体にクロームメッキのビジョンのマークが印象的でした。  (2)は昭和36年ごろの桜並木の通り(現、環八)を上野毛方向から野毛公園の方向に写したもの…

川の記憶
 奥沢2丁目 畔柳 順 一

第23号 2006.5.2  我が家を出て角を二回曲り坂を下ると、旧九品仏川の緑道に行き当たります。生れた時から、何千回とこの緑道を通っており、家の近所の道と言うとまずこの道が浮びます。   一番古い記憶では(前後の記憶から推測すると、多分三歳頃)緑道はまだ川として存在していました。確かアヒルが二羽程水浴びをしており飽きずに眺めていた覚えがあります。  又当時オタマジャクシも生息しており、親に採ってもらい、家の小さな池で小さな蛙になったのを見て感激した事、この後数日は将来動物学者になろうと思いました。又もう少し成長した後、木片を舟に見立て川に流し東工大の辺り迄川沿いを歩いた事、この頃は探検家として激流を下る事を夢見ていました。その子供の頃の記憶の中に、小さな川と私の幼い夢とが重なっていた時もあったのです。  スポーツに熱中し毎日家の近くを走っていた頃、はるか以前に緑道になっている…

昭和四年夏の終わり
 奥沢2丁目 武村 仁  

第24号 2006.7.28  昭和四年(1929)の夏の終わりに今の場所に、大橋近くの駒沢練兵場に隣接した内務省の二階建ての官舎から引っ越してきた。  東京府荏原群玉川村大字奥澤452番地である。父、知雄32才、母、音羽25才、祖母、タネ62才、和子、3才、典子、1才、そして5才に近くなった私の六人家族である。  私は2トントラックの荷台の一番前に坐って砂利道をゴトゴトとやって来た。随分と遠い田舎に来たものだと思った。今の感覚で言えば、小田急の秦野くらい迄行った感じである。全く武蔵野のど真ん中といったところで、線路向うの北西には林というより森に近い森林があって山鳩が鳴き、空にはトンビや鷹が舞っていた。門の前や敷地の西側は、草茫々の原野である。 敷地の北側は目蒲電鉄二子玉川線の開通間近の線路で、この年の十二月末近くに二子玉川から大井町まで全線が開通して大井町線と呼ばれるようになった。電車は…

奥沢育ち
 奥沢2丁目 宮城 加代   

第25号 2006.10.30  去年の映画の『ALWAYS 三丁目の夕日』を観て、昭和30年代の私の幼い日の奥沢の町を思い出しました。東京タワーを建設中の、あの懐かしい日々が郷愁を誘うとても良い映画でした。    奥沢駅前の今のサンケイプラザは、むき出しの地面の上に屋根のある細長いアーケードで、母に手を引かれながら買物をしました。活気のある店々で、元気なおじさん、おばさん、お兄さん達の声が飛びかっていました。“スリにご注意!”などの古い看板が、アーケードの中に沢山並んでいました。又、その頃の遊び場は、奥沢神社でした。自転車に乗って紙芝居屋さんが来て、お菓子を売っていて、子供達が集まっていました。ゴム段や、なわとび等をして遊んだ記憶があります。まだTVが普及せず家に無くてラジオ番組を聴いて育ちました。家の前の目蒲線の保線区が網で仕切られていて、検車区で働くおじさん達が、お正月には餅つきをし…