おくさわ今と昔『昔』

日暮れのジャガイモ
 奥沢2丁目 香山 万理恵

第14号 2004.1.1  私は奥沢で生まれ育ち、今も同じ場所に暮らしています。  私の子供時代―昭和30年代初めの奥沢には、田園の雰囲気が色濃く残っていました。緑の垣根に囲まれた家々は、幅広の窓や縁側、さりげなく手入れされた庭を持ち、街全体に、節度ある解放感と穏やかな調和がありました。庭先に鶏舎を造っているお宅も多く、コッコッコッというのどかな鳴き声が、いつもどこからか聞こえていました。道路は未舗装で、大井町線の線路脇の土手には、春になると土筆が顔をだしました。木造の家並みや連なる垣根、土の道路に落ちる光や影は、コンクリートやアスファルトに射す今のそれよりも、ずっと、やわらかかったような気がします。  特に忘れられないのは、隣家の石井家で味わった「焼きジャガイモ」です。  旧家である石井家には、二十数年前まで、母屋に隣接した広い畑がありました。と…

父子と庭
 奥沢2丁目 鈴木 仁

第15号 2004.4.15   私は庭や植物に関心があります。今日はわが家の庭のことを少しお話しましょう。   私共家族は、昭和26年に仙台からこの地に越して参りました。当時の庭は伝統的な日本庭園で、、丸い庭石、築山、松や椿、茶室が記憶にあります。   父の恩師宮本教授は東京医科歯科大学で、研究の合間に好きな高山植物を風通しの良い屋上に沢山植えていました。父は先生の指導で庭の改造に取り組み、英国ロックガーデンの文献を読み、先生と庭石の組み方を議論しながら小堀遠州庭と英国ロックガーデンの混然とした庭に仕上げ、山野草を植え、父の故郷六日町から取り寄せた桂、いたやかえで、ぶな、こぶし等を植えて得意そうでした。一時はこまくさが咲くまでになりました。   やがて父は医業が、私は学業が多忙になるに連れ、庭は省みられなくなり50年に亘って、雑草生い茂り、樹木だけ…

60年前の奥沢
 奥沢2丁目 お話 中島 郁代
     聞き書き 杉村 捷子  

第16号 2004.7.17  昭和15年本郷から奥沢へ、役人をしていた中島のところに嫁いで来ました。主人は一人で庭に芝生を植え、築山・池・藤棚を作り、何種類ものバラと木苺の垣、横板をひだのように重ねて門柱まで作っていました。梅・もみじ・椎等、共に74年過ごして来ました。畑や野原があちこちにあり今の交和会館の場所は駐在所で、ご近所には海軍さんが沢山住んでおられました。主人の母と妹が御近所づきあいを一手に、私は子育て。浴衣をほどいておむつを作る、大人の着物もすべて洗い張り又縫う、時にはふとんに作り替える、保存食も皆手作り、風呂は練炭で焚きました。原米屋さん、森田屋さんから毎日御用聞きが来てくれました。昭和14年義妹は嫁ぎ、義母は熊本の長男宅へ帰りました。戦争がひどくなり4子・5子が産まれ、配給を取りに行くのに御近所の方々をほとんど知らず往生しました。熊本風なのでしょうか「嫁は外出しないものだ…

「大ケヤキのある散歩道」の戦争と平和
 奥沢2丁目 宗 昭行

第17号 2004.10.11   この散歩道に面した現在の地に住むようになったのは昭和15年。間口3メートル足らずのうなぎの寝床の敷地にわが幼少の思い出の家があった。   昭和19年4月八幡小学校に入学、入学式の写真を見ると男児生徒ばかり70人が写っている。ほぼ全員がいが栗坊主頭という戦時色濃厚なもの。   この頃の思い出で強烈なのは米軍のB29爆撃機による空襲である。「敵機 来襲」を告げる空襲警報とともにあわてて隣家の防空壕に逃げ込む。近くのお宅に焼夷弾が何発か落とされ、玄関扉に大きな穴があいたりした。自由が丘あたりも空襲の被害に遭い、我が家の二階から見た西の空が真っ赤に燃えていた光景は成人してからも時々夢に現れた。この頃だろうか、普段は見掛けない大勢の人が我が家の前の道を緑が丘駅方向に歩いていたのを思い出す。空襲で家を失った人々が東工大に向かって、避難し…