おくさわ今と昔『昔』

九品仏川の風景
 奥沢2丁目 藤田 武

第18号 2005.1.15  私達の年代の悪餓鬼は遊び場と遊びの種類には事欠かなかった。鬼ごっこ、缶けり、三角ベース、やっつけっこ、めんこ、凧揚げ、べい独楽、蝉取り、トンボつり、泥鰌掬い、ザリガニつりetc.  その遊びの一つが九品仏川である。淨真寺(九品仏)の裏に九品仏池(中ノ島があり貸しボートが出るほど大きな池)があり、そこから流れ落ちる水と湧き水を集めて小さな川(現在は遊歩道となっていて、八幡中学の傍から自由が丘を通り緑ヶ丘駅を経由して東京工大の隣で呑川と合流する所まで)が流れており、その両岸に側道があり桜が植えられ、四季を通じて自然の豊かさを感じさせてくれた。  その流域は広くは無いが未だ田圃や畑が多く、私の家の下は畑でその真ん中に斜面から湧き出た水が溜まって出来た三角池があり、そこにはイモリ、泥鰌、ザリガニ、クチボソ、めだかetcが棲みかとしていた。  この九品仏川の水質はすこ…

アルバムに残る奥沢のまち
 奥沢2丁目 三浦 誠一

第19号 2005.5.17  私が引越してきた頃は、まだ大井町線が通っていませんでした。門から北に向かってまっす ぐ走り抜け、この川の流れを飛びこえて向う岸に渡って遊びました。この写真は昭和13年頃の九品仏川です。  昭和3年頃は我が家の南側に地主の原さんの竹薮があり、小学校に通う道が夕方暗くなるの で、竹薮の角に親が自費で街灯を設置しました。その後に家の庭に移し、今も道を照らしています。写真は昭和11年頃、雪の後に家の前の道 (現在31番地と32番地の間の道)から南を望んだもの。  昭和22年の奥沢神社の祭禮には、数年ぶりに御輿が奥沢のまちを練り歩きました。その時の 写真です。食糧も無く貧しい暮らしでしたが皆が復興の意気に燃えていました。そして 「平和」 を楽しんでいました。…

昔は奥沢にもこんなものがありました
 奥沢2丁目 平野 肇

第20号 2005.8.12  昭和8年、私の一家が越してきた頃の奥沢は、まだ麦畑やネギ畑が広がるのどかな住宅地だった。現在は暗渠となり、桜並木が続く九品仏川緑道は当時呑川と呼ばれ、川エビやドジョウがたくさん泳いでいて、子供たちのかっこうの遊び場になっていた。  あの頃は今の子供たちとは、まったく遊び方が違っていたように思う。当時小学校4年生だった私は、いたずらごっこに明け暮れた。昔はからだの大きなガキ大将が何人もいて、子分のように下級生をしたがえ、「おまえはこれをしろ」、「あれをやれ」と指図しながら、グループの面倒を見ていたものだ。  さて、奥沢駅から神社の方へ歩くと、左側には桜並木に囲まれた野球場があった。ここは大手電気会社「明電舎」(本社は品川区大崎にあった)のグラウンドで、シーズン中は毎日熱戦が行われていた。立派なスタンドも整備されていて、住民たちも観戦できた。もちろん無料である。…

奥沢の二,三の昔語り
 奥沢5丁目 栗田 信男

第21号 2005.11.3 奥沢駅西側の引込線路が無くされた後、駅のすぐ西に、自由通りに面して森永ベルトラインと云う洋菓子・喫茶の店が作られました。そこより百メートル程西の平松理髪店では、子供の理髪に際し、森永ベルトラインで小菓子や飴をもらえる引換券を出しました。それで子供達に大変人気が出ました。 奥沢神社(八幡神社)の東方、現在の奥沢病院のあたりにあった広場に、昭和9年ごろ、土俵が築かれ、周囲にゴザを敷いた席が設けられて、3~40名の力士がここで大相撲をやって見せたのです。入場料はよく覚えていませんが大人一人五銭位だったでしょう。 ところで、九品仏の北西には湧水があり、昭和7年に60メートル×40メートル、深さ7、80 メートルの大きな穴が掘られ、湧水をためて池が出来、そこから流れる水流が九品仏川と呼ばれて、豊かな水量で両側に水田を作りながら緑ヶ丘小学校の近くを流れ、東京工業大学のすぐ…